援助者という意識

誰もが当事者、誰もが援助者

 

 今日は、これから遺族になりゆく方々と日々親密に接してこられた方から、エンドオブライフケアについていろいろな現場の体験談を聴いてきました。

 

 この「きく」というフレーズだけでも日本にはさまざまな表現があります。そしてそのとらえ方は、人によって若干違っていたりします。

 

「聞く」「聴く「訊く」「利く」「効く」

 

というふうに。

 

 耳、心、目がそろってはじめて「聴く」となるこのニュアンスが、大事なときもあれば

 

 ただ「聞く」ということで聞き過ごしていることもあるだろう。

 

 「訊く」という尋問に似た感覚でとらえる人もあれば、「訊く」という行為で優しく問いかけ本心を導き出す人もいることだろう。

 

 気が「利く」人は、雰囲気や表情を気にかけ話すだろう。

 

 そして、それらが上手に「効く」と、苦しみを「離す」「話す」「放す」ことができたり、これからの生活を紡いでゆけるのかもしれない。

 

 このグリーフの学びの中で、わたしは自分が失っていた過去、隠したくても隠せないグリーフをなんども突き付けられました。援助者という認識をもつのであれば、援助者はだれよりも自分の必要とする「支え」に気付いていなければならないと知るのです。

 

 なぜなら、わたしは明日の当事者かもしれないから。

 

 だけど、今日もひとのお悔みごとはわたしにとって他人事であり、時は無情に流れ、その流れの中で生きているだけのわたし。

 

 グリーフという時間軸は、そもそもそういうものであり、当事者にしかわからないものだからこそ、「愛の意味」があり、「愛の価値」を見出す。

 

それって、「私だけのあなた」を再構築するための工程や道筋の中で、どうしたって抵抗のできない「ゆらぎ」なのかな。って、感じる。

 

 

平岡 佳江
私は、これまで自分自身や、たくさんの方々の悲嘆、悲しみと遭遇し向き合ってきました。これからは一歩ずつ、ゆっくりと歩を進める人生のなかで、死化粧師としてできることを探求し続け、こころねとご縁ある方々のグリーフを大切にケアしてゆけるよう精進して参ります。